第三編 町の起源と發達過程

 第二章 王朝時代と武家政治


  第一節 郷・里・庄

 本町の聚落の状況が、原始國家確定に赴く頃既に一応整つた姿をもつていた事は想像されるが、その内容が、はつきりした史実となつて浮び上つてくるのは、奈良朝以後である。即ち七日子や、八日市場の上代聚落遺跡は、この遺跡の内容を傳えるものであつて、これば本町のみならず、当時の遺物散布地を追つて、廣く峡東地方の状況を眺める時、日下都の周辺には、古代村落が相当栄えていた様子が知られる。
 時代は少し下るが、和名抄は、この間の消息を山梨郡十郷の中に傳えている。本町周辺が、そのうち何郷に属したか、今詳らかでないが、大体於曾、加美、大野、玉井の各郷があげられ、古來からこの消長をめぐつて、幾多の説がとなえられてきた。然し思うに、郷の変遷は、降つては種々の伸縮があつたと考えられるが、大凡奈良時代頃には、可美郷に属していたと思われる。注目すべきは、正倉院御物中、和銅七年十月に貢納された白※(し UNICODE 7D41)に、「甲斐國山梨郡可美里日下部□□□口□と認められた文献が残されている事である。これば可美の里が、和名抄所載の加美郷に符合するものであり、恰もこの附近の地理に相当すると考えられるので、一つの実証にもなる訳である。又「日下部…云々」は恐らく氏名を指したものであろうから、此処に甲斐の國造の問題も浮び上つて興味深い問題である。
 奈良時代、本町周辺が可美郷に大体含まれるものとして、その聚落の位置する分布を追い、当時布かれたと思われる條里制の遺構を求めて、村落の形態を探つてみると、七日市場の一部から下井尻方面にかけて、僅かながらその遺構と思われる箇所が残されている。下井尻村古絵図(年代不詳下井尻区所蔵)は、小字に中沢上の割、中の割の名称を残し、後屋敷村上の割等に続く遺構の俤をつたえている。尚下井尻には町田と云う名称も現存するが、この辺ば古い時代の上田であり、從って耕土も深く、開墾の古さを物語り注目にあたいする。
 この條里の制は大化改新による班田収授の法であるが、與えられる口分田は原則として水田であり、事情により陸田をも口分田とした。從つて、その地理的状況から、何処迄、この辺りに班田収授の法があてはめられたか判らないにしても、その班給の制と村落の模様は、開墾の古い田畑や、遺物の散布地によつて、大体区別出來ると思う。そして、耕土の深さなどによつて定められた近世の上、中、下田の配置状況が、大凡この古い開墾地と思われる地点に合致しているので、耕作地と聚落との配合の模様がおぼろげながら知られる訳である。このうち、村落は縄文式時代より引続いて丘陵地が選ばれ、乾燥度の強い場所が好まれている。水田地帯と思われる処には、從つて聚落趾の如く遺物の散布は余り見られない。
 七日子地区は,小字宮の平・宮の前北、南・下彌勒・天神原等が聚落の所在地であり、水田地帯は、八升蒔・大堤下・柳田・中沢・相反保等であつたと思われる。八日市揚は、大泉庵・白山・大堀等が聚落地に、間反保.東反保・藥師前・寺の下など略水田であつた。下井尻地区は、雲光寺裏手の石原・沢越・秀森前・下三狐神等が聚落に、町田・秀森前・夕矢場等は水田地帯であつたと思われる。このうち、遺物散布の状況からみて、一番大きな聚落趾があつたと思われるのは七日子地区であり、此処は日下部と松里をはさんで廣大な地区を有している。興味深いのは七日市場石島部落であるが、こゝは土師の遺跡から現在まで、引続いて村漆が存続したのではないかと思われ、他の部落は、長い期間に、現在の位置に移動した模様が見られる。
 七日子神社東隣りには、古代瓦の出土する地点がある。時代は土師と同時代であるが、或はその頃築かれた寺院址であると考えられる。佛教渡來以後、七日子神社と併存され、この地方豪族の信仰の対象となつていたものであろう。本縣には、元來古代瓦の出土例は少なく、僅かに一宮村國分寺址、春日居村寺本寺址・甲運村川田・七日子・八代の御所に古代瓦の出土を見た外は類例がないのである。從つて七日子の場合は、地方豪族が国分寺址の他に、自分の権力によつて寺院を築造した例もあるので、そうした意味の寺院址ではないかと考えられてくる。叉本縣には他に例がないだけに、当時この地方に住んだ豪族の権力が窺われる。それについて注目すべきは、最近石田茂作氏が、寺本廃寺の発掘の記事の中で、寺本寺址の建立を、一宮國分寺址より少なくとも五十年は先であろうと云われているが、その中で
 「・・・そんな古い時代に、そんな立派な寺が(寺本をさす)甲斐國などの僻辺の地に、どうした風の吹き廻しで建つたかと云う事であるが、これは当時の造寺の常識から考えて、或氏族の背景によつて創建されたとするが適当と思はれる。さて当時甲州の地にそうした資力のあつた氏族はたれかと云うに、私は甲斐國造を祖とする日下部連の一族ではあるまいかと想像する。幸い日下部氏族の本拠と思はれる日下部町は寺址よりほど遠からぬところにあり、その附近から、近時奈良時代の住居趾が発見されたと傳え、且つ之等周辺に古墳の散在するもの少なくないと云へば、これらの事は私の右の想像を有利に導くものではないだろうか・・・・」と云われている。
 これは本町と日下部氏の簡単な結びつきには疑義があるが、然し七日子の古瓦出土の遺跡と考え合せる時、非常に興味ある問題である。ともあれ聚落群は、この神社と寺院をめぐつて、特に廣大な範囲をもつて分布し、その附近の地理的状況に応じて各郷が存在した。
 郷の大きさは、律令時代には五十戸一郷と云われているが、戸は郷戸であるから從つてその範囲は相当大きなものであつたと考えられる。しかし、郷の組織は房戸との関係に於て、どのような内容を包藏していたか、今尚確乎たる証左はあがつていない。唯日下部遺跡、特に八日市場の発掘の結果は、この問題の解明に一歩を進めた訳であり、全町の遺跡群を究明すれば、新しい結果が生まれてくると思う。
 聚落を一つ一つ形造つている房戸は、八日市場地区が二〇、七日子地区が四、発掘されているが、八日市場には他に倉庫址や、特殊の設備、溝等も発見されている。  聚落の構造は、この時代はまだ竪穴住居址群で、これは七日子に見る縄文式の竪穴と大差なく、形が方形もしくは矩形に変り、先史時代の頃は地面の眞中に炉があつたが、それが寵に変つて片隅に設けられるのが特徴になつてくる。家の大きさは大小様々あつて、大きい家跡は一辺が五米余、小さい家跡は一辺が三米位である。叉同じ竪穴と云つても、やはり其処には先史時代の家と比べて遥かに進歩があり、搗き固められた床面も一様ではなく、或は全く搗き固めた様子のない家とか、半分位土間の如くに固めた家跡等もあつて内部構造はそれぞれ複雑である。
 叉、この大小の家の差は単に家の構造の相違があつたばかりではなく、大きい家に住んだ者は、自ずと権力もあつて、部落中での主だつた人である事なども知られた。
 これば正倉院文書にある階級の別や、郷戸と房戸の差、或は、戸主と之に隷属した下級民との区別を物語つているようにも思われる。叉律令制に於ては、口分田の班給を一般には郷戸主に対して行う事を考える時、本町の土師墳跡の住居の分布状態は、上代の家族制度を表わしている如くにも考えられるが、房戸は郷戸の戸主に依つて統轄されとは云え、各個の家に、それぞれ竈を有し、器物も各房戸独立したものを持つている現状を見る時、既に其処に何等かの形で房戸が新しい生活様式を持つていた様も偲ばれるのである。唯、房戸の中からは、たまたま王の字の墨書がある土器が一様に出土しているが、或はこれは上代の家族制度の王姓を名のる(推定)一族であつたかも知れない。出土遺物から眺めると、同じ竪穴に住んでも、この時代まで降れば、先史時代に比較して遥かに生活は複雑化し、出土遺物も鉄器などが豊富になつてくる。叉土器も近代の生活に身近かなものが多くなり、碗、皿、土釜などが沢山出土する。先史時代の聚落は同じ台地上にあつても、如何にも蒐集経済を表す生活様式が窺われるのに反して、この時代の一軒々々の家跡は、全部が同族團体の集りである事が容易に判り、その上家と、その家を包含する部落の構成も、先史時代のように、個々の家跡が遊離したものでなく、既に近世に見られる家の成員と戸籍制度の発生も見られる訳である。從つて日下部中学校庭の遺跡には、現在の部落構成に見られる如く、家の配置や水利施設の面では.非常に苦心した様が偲ばれ、大きく郷戸主によつて統轄されている事が知られる。叉このような王朝時代に始まる地方の庶民生活(竪穴住居)ぱ、大凡、平安時代以降まで続いており、其処には私達の想像以上のものがある。
 里も叉、郷戸を構成単位としていたのではないかと思われる。これは郷戸が大なるもの、小なるものとあり、構成も様々であつた事から知られるが、この事は古記録にも若干見えている。甲斐叢記は山梨・玉井・七日子等の、里名をあげているが、このうち七日子の里は、即ち七日子遺跡辺の聚落をさしているものであり、この里が古く開けた事も偲ばれよう。叉注目すべきは、平安中期に最も盛んに行われた催馬樂に、この七日子(七彦)の郷の事が出ているが、これが後世甲斐叢記などにかけられた七日子の里であり、当時、平安の中期頃既に催馬樂の中に歌われていたのは興味深い事である。
 庄も叉古くから文献に見られるが、その称呼は時によつて変るので限定はむづかしい。王朝時代に於ける庄は、この辺りにはまだ表われていないが、本町などの場合には、多くは鎌倉期以後のものである。國志はこの点で大八幡庄をあげている。郡誌は更にこれを、
 「貞観年間以降、大井俣庄、及は大八幡郷と呼びしは、今の八幡八ケ村、並びに河東五ケ村を包括したる村名にして、本村中小原・八日市場・下井尻は之に属せり」 と記載しているが、眞偽の程は判らない。叉甲斐國志の安田義定の項には、
 「明王寺ノ神主左京ガ元亀二年ノ祭文二(中略)ヤス田二八幡大井、栗原二云々(ヤス田ハ即チ大野郷中二在リテ西郡二属シ万力筋二隷ス一時ノ庄名アル地ヲ領ス故ニ安田三郎ト稱セシナルベシ」
とある如く、鎌倉期初頭本町周辺をヤス田(安田)の庄とも稱えていた事が知られる。
 かくして、本町周辺の庄名は、安田・大八幡・加納などの名稱を巡つて幾多の変遷があつたのであろう。そしてこれ等変遷する地名はそのまゝその地方の消長を意味するのであるから、王朝時代頃から、急にはつきりしてくる本町周辺の地方庶民生活は、そのまゝ古代村落が如何にして、現在の村落に移動したか興味ある大きな問題を残している訳である。


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