編集兼著作者、矢崎好幸先生の略歴
矢崎先生の御家族に「郷土風景 創作版画と其の作り方」のデジタル化とインターネット上での発表許可をお願いした時、御家族の皆様は御快諾の上、先生の御長男である故敦生様執筆の「矢崎家の来歴と三代の記録」から矢崎先生の略歴を御提供下さいました。感謝の気持ちを込めて、矢崎先生の本と共にここに紹介します。
矢崎好幸(やざき よしゆき)の略歴
父好幸の残した詳しい履歴書が有った筈であるが、資料の整理が手際良くなかったために、それを引用することができない。ここに記す略歴は、本人の軍隊手牒のほか下記の刊行物を参考にして纒めたものである。見つかった時点で補正をしたい。
書名 | 編著者 | 発行年月日 | 発行所 |
峡中文人録 | 渋谷 俊ほか | 大正12.6.25 | 甲府市柳正堂 |
現代教育家評伝 | 為藤五郎 | 昭和11.1.15 | 東京市文化書房 |
昭和山梨自治大鑑 | 石原徳栄 | 昭和13.7.20 | 峡中日報社 |
峡中芸術家大鑑 | 渋谷 俊 | 昭和23.11.1 | 山梨毎日新聞社出版部 |
履歴;
明治27年9月20日 | 矢崎佐左衛門、同あさ の四男として東山梨郡平等村落合 |
| 147番地において出生 |
34年4月 1日 | 東山梨郡平等小学校入学 |
42年3月31日 | 同校高等科課程を卒業 |
43年9月 1日 | 東山梨郡日下部高等小学校補習科第一学年入学 |
44年3月31日 | 同校同科修了 |
44年4月 1日 | 山梨県師範学校本科第一部入学 |
大正 4年3月31日 | 同校卒業 |
| 小学校本科正教員の免許を受く |
4年6月 1日 | 6週間現役兵として歩兵第49聯隊第7中隊に入隊 |
4年7月12日 | 現役満期除隊 |
| 国民軍幹部適任証付与 |
4年9月から | 同舟舎で研学 |
8年 | 文検西洋画用器画科合格、文部省 |
9年4月 1日 | 山梨県師範学校教諭、図画科担当 |
11年4月17日 | 東山梨郡平等村147番地矢崎宗十郎方より分家、本籍を |
| 平等村845番地に定む |
11年6月19日 | 米山 要と婚姻 |
12年4月 3日 | 日下部村飯島楼にて第一回個展、油絵、水彩画等60余点 |
昭和14年4月 1日 | 東京美術学校講師、セメント美術教室主任教官となる |
| 大妻学校講師 |
16年 | 文部省編纂工作教科書中セメント教材分担執筆 |
17年 | 社団法人代用品協会嘱託、工産品規格設計委員 |
| 日本セメント製品工業組合連合会顧問 |
| 全国金庫業組合連合会顧問 |
19年5月18日 | 東京美術学校講師退職 |
21年 | セメント美術工作研究所創設、所長となる |
21年頃から | 日本精陶株式会社取締役 |
| 川崎鍛鋼建材株式会社取締役社長 |
| 総合工芸会会員 |
| 汎美会推薦委員等 |
25年2月18日 | 逝去 |
著書;
書名 | 発行年月 | 発行所 |
染色芸術クレオン染 | 大正14. 2. 1 | 東京市、青陽社 |
卵殻モザイクとカゼックス工芸 | 昭和 5.11.20 | 東京市、教育研究会 |
郷土手芸卵殻モザイクの作り方 | 8. 2. 1 | 東京市、現代乃婦人社 |
郷土風景創作版画とその作り方 | 8. 9.20 | 東京市、教育美術館 |
セメント工芸 | 10. 4.20 | 東京市、丸善株式会社 |
最新図案教程 | 11. 3.20 | 東京市、綜合美術研究所 |
実技詳解セメント工 | 14. 7.20 | 東京市、学校美術協会 |
セメント工作 | 14. 7.20 | 東京市、図画工作(株) |
セメント美術 | 16.11.15 | 東京美術学校セメント |
| | 美術工作研究所 |
- 発明特許;
- ○ 染色リムオン製造法
- ○ 卵殻モザイク
- ○ 表面に色彩模様を有するセメント製品製造法
- ○ 上下窓分銅
- ○ 金庫壁金庫扉
- ○ 防盗金庫壁
- ○ レリーフテックス製造法
- ○ 水晶主軸に対し任意の角度に切断する方法
- その他;
- 卵殻モザイク作品のお買上げ 昭和天皇皇后宮職、秩父宮外6宮妃殿下
- 講習会講師 全国に亙り約500回
- 新聞雑誌等寄稿 約800回
- 山梨教育会機関誌「山梨教育」 表紙画及びその解説を毎号担当
- 芸術上の理念;
- ○ 芸術と科学の織りなされた分野の開拓こそ、我が使命と思い努力している。この長き経験を実業界に打込み、何ものか新しきものを生み出したいと精進している。
- ○ 私は、美育の問題が、一日も早く有閑的イデオロギーから脱却して、何人も絶縁することのできない美的生活の拡充へと、その焦点が向けられなければ、嘘だと思っている。
父の遣稿;
(1)会社社長としての年頭訓示原稿か。原文のまま。(昭和25年正月)
年改まって終戦6年の春を迎う。
昨年の正月を思い、更に遡って数年の春を思へば、敗れたといえども物資は年とともに豊富に、混乱を極めた人心も徐々ながら落着きを取り戻して、その間に物心共に良き成長の道を辿ったことを否定し得ないであらう。
本年はいかなる年であらうか。茨の道は厳として前途に横たわっている。日本の真の民主化はまだ遠い。経済の復興は更に多難であらう。しかしこれまでの新春と違って、これからに新たなる希望も多い。これは、日本が世界の仕組みの中に正常に帰る日がいよいよ近づいて、恐らくは本年は新しき正常世代の実を各方面に現すであらう、ということである。
新しき年の始めに当たって覚悟を新たにすべきことは多い。しかし中でも、最も重大なことは過去5年間にいつか馴らされたる異常感を精算して一切の正常感を持つべきであらう。
正しいものは正しく報いられるものである。不正は何時までも誤まれる栄華を続けることはできない。
私どもは今年こそ不動の確信をもって日常生活の正しい歩みを進めていきたい。
終戦後昨年までの5年間は幾多の波乱はあったものの、一言にして言へば、戦後の混乱期と言うべきものであった。各国民の生活はその混乱の中にもまれて、正しきものが必ずしも正しく報いられず、不正なるもの世にはびこって、正義の変調が至る所に満ちていた 。経済も、思想も、道徳も、セメントもしかり。終戦後の最も大きな不幸は、神は世になきかの嘆きまでいちぢるしくせしめて、正しきを願うものに絶望感をさへ与へるに至ったことであった。
未だしとは言へ、大体戦後の混乱期が昨年をもって一段階に達したことは、世間の大いなる幸福てあった。
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