2 「春鶯囀」の醸さるる「家」
中込忠三は、1910(明治43)年4月1日 父 虎一、母 さとじ の三男として増穂町青柳で生まれた。生家は寛政2年創業の醸造業「萬屋」である。銘柄名は始め「一力正宗」であったが、1933年、与謝野寛・晶子夫妻の来遊の折り晶子が「法隆寺 など行く如し 甲斐の御酒 春鶯囀の 醸さるる蔵」と歌ったことから「春鶯囀」を銘柄名とした。現在でも県内最上位の醸造元である。
父虎一が忠三7才の時亡くなったため、慶応大学在学中の長兄旻が中退し家業を継いだ。旻、次兄純次と同様に忠三も県立甲府中学校に入学、その直後病気のため静岡県静浦で母に付き添われての療養の日をおくる。5年後、旧制静岡高等学校文科2類入学(29)。卒業と同時に京都帝国大学に進んだが、翌年東京帝国大学文学部に再入学した。東大ドイツ文学科の卒業は36年である。
忠三の意識・思想・行動様式の形成に大きく影響を与えたと思われるのは、母さとじ及び二人の兄の「生き方」である。
さとじは、同村の富豪秋山家から迎えられ、早く夫と死別したが長男旻と共に家業の隆盛を推持し、さらに子女の教育に意を用いた。増穂町は身延山久遠寺に近く日蓮宗の寺院も多く「日蓮信仰」の篤い地域である。彼女も毎朝中込家の菩提寺寿命山昌福寺への参詣を欠かさなかった。参詣の途次、いくばくかの金銭、食品、衣料等を貧しい家の軒先にそっと置いていくのだった。彼女の実父秋山源兵衛(富士川運輸会社副社長)は、藤村県令等と「富士川水難事故」(1875)にあい遭難死した。彼の遺体は伊豆西海岸に漂着し、獅子ケ浜(静岡県沼津市)本能寺に埋葬されている。
彼女は父の墓前に
「苔むせる み墓の前の 石ひとつ 草ひとつだに なつかしきかな」
の歌碑をたてた。
忠三が静岡高校を選んだのは、毎年恒例の母、兄弟での本能寺への墓参、静浦での母に付き添われての療養の日々の想い出が、「静岡」に連らなったからだった。
長兄旻は、大学中退、家督相続後甲府中学同窓生、矢崎源之助、今井新造、秋山啓二ら17人と図って「革人会」を結成し、機関誌「革人」を発行した。当時「県下、初の良家の子弟の赤化事件」と報道された。結局、「革人」が「出版法違反」に問われ、6号で廃刊、矢崎源之助等が禁錮刑をうけ活動は終息する(22、7月)。
当時、各地で農民・小作人組合の組織化が進み、小作料、土地取り上げをめぐる紛争が頻発した。[山梨県内小作争議件数は 20年=12、21年=18、22年=41、23年=45、24年=49]
日蓮主義青年同盟の妹尾義朗等が争議の調停のため入峡した。一行の宿舎となったのが中込家=萬屋である。妹尾達は地主側の立場ではあったが、小作農民達の主張にも理解を示していた。妹尾は「仏陀を背負って街頭へ」を掲げ次第に社会主義に近づき、第二次大戦(アジア太平洋戦争)後には「日本共産党」に入党するという経歴を持つ。妹尾等の一行中に石井集貞がいた。若く、そして小学校教師・禅僧でもあった石井に中学1年生の忠三は強く魅せられたという。石井は間もなく、当時の池田村村長の小宮山清三に懇望され、長野の小学校から池田小学校の校長に迎えられる。
次兄純次は、甲府中学卒業後、創立間もない「文化学院」に入学した。中学在学中の学業成績が極めて優れていたので、同級生達は彼の進路選択を訝った。同級生には東大教授となる法学者有泉亨を始め安藤星州、依田泰八、小池善一、山村登喜夫、依田省吾等、後の著名人がいた。
東京駿河台の「文化学院」は西村伊作によって1921年創立された。西村の叔父大石誠之助は「大逆事件」(1910)に連座し死刑となった。この理不尽な処刑への抗議として、西村は自由主義教育を建学の理念とする「文化学院」を創設した。
羽仁もと子の「自由学園」も同じ時期に同じ趣旨に基づいて創立された。
純次は、その後長く文化学院に関わると共にフランス文学の翻訳・評論・紹介更にフランス映画の日本輸入等の文化交流に大きな足跡をのこし、90年「野口賞」を受賞している。与謝野寛・晶子夫妻が「萬屋」に来遊したのは、夫妻が石井柏亨等と文化学院創設の「賛助者」であり、その教壇にも立ったという経緯があり、その上、純次の角田富美子(甲府市)との結婚のさいの媒酌人でもあったからである。
忠三の甲府中学入学は1924年である。前年3月に起こった「入試問題漏洩事件」の後、校長として着任したのは江口俊博。大島正健と並んで甲中の名校長とされる江口は、その在任中に、校舎の新築移転、校歌の制定、いまも続く「強行遠足」行事の創始等の華々しい業績を残した。しかし、中途から「手のひら療法」と称する奇妙な民間療法とも新興宗教ともつかぬものに凝り、生徒達の顰蹙をかったという。
江口は、校歌の作詞を三井甲之に依頼した。三井は松島村(敷島町)長塚の大地主の家に生まれ、甲府中学に入学したが二年終了時に私立京華中学に転校した。東京帝国大学文科を卒業した当時気鋭の歌人である。20年代から太平洋戦争敗戦までに彼および彼の盟友である簑田胸喜が「原理日本」等によって喧伝し、行動した「超国家主義・天皇中心主義」の運動は凄まじいものである。その犠牲者は滝川幸辰(京大教授)、美濃部達吉(東大教授・貴族院議員)、津田左右吉(早大教授)、矢内原忠雄(東大教授)はじめ、「最大、最悪の言論弾圧事件」とされる「横浜事件」(被害者の中に本県出身の中澤護人がいる)まで数多い知識人・文化人・言論人に及んでいる。
三井は、江口の説く「療法」に強く共鳴し、30年には「手のひら療法」を著作出版している。
28年、三井甲之(本名 甲之助)作詞の甲府中学校校歌が発表される。
「我等は 日本に生まれたり 神の御代より 一系の… 」で始まり
「…撓まず 萎縮まず 辟易がず 進むぞ 大和心なる」で終わる歌詞は、
甲之の真骨頂を如実に示すものだった。その年の「甲府中学校友会雑誌」58号に寄せた「校歌作者の言葉」はその文末を次のように結んでいる。
「…日本永久の現実的表現として、かしこくも万世一系の皇統を奉戴するわれわれ国民は義勇奉公の忠義を尽くすべきである。(日本精神は)不撓不屈の『やまとだましひ』であり『やまとごころ』である。『いかならむ 事にあひても たわまぬは わがしきしまの 大和だましひ』(明治天皇)」。
現在も日川高校校歌である大須賀乙字作詞(1916)の「…天皇の みこと(勅)もち 勲したてむ 時ぞいま」は甲府中学校歌と理念通ずるものだった。実は俳人・歌人乙字と甲之は、かねて深い交友があり、甲之は乙字のつくった日川中学校歌を熟知の上で甲府中学校歌を作詞したものと思われる。
この年、忠三は5年生。校歌になにを感じていたかを推量するものはない。静岡高校では、良き師、良き友に恵まれた。友人の中の何人かが、かの「治安維持法」に触れて学校を追われた。親友松本啓之助、山形鋭一郎等も学校を追われた。しかし、忠三との友情は、二人がその生涯を終えるまで変わることはなかった。
32年、京都帝国大学に入学した忠三は、翌年、東京帝国大学ドイツ語科に再入学する。三井、蓑田らによって策謀され文部大臣鳩山一郎が滝川幸辰等を京大から追った「滝川事件」について、東京へ移った忠三が如何なる感慨を抱いたかは不明である。あるいは、甲府中入学以来の親友標政英の事件に衝撃を受けていたかも知れない。標は、31年5月の県下初のメーデー、8月の国際反戦デーの指導者として検挙され、32年3月には「治安推持法」によって懲役1年6カ月(執行猶予4年)の判決が下されていた。標との友情も、標の戦死(45)まで続く。
東京帝国大学文学部ドイツ文学科を卒業(36)した忠三は、官公庁にも企業にも就職を試みなかった。生家からの支援という経済的余裕以外の「あるなにものか」が彼をそうさせた。
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