6 「寂光土」
敗戦の翌年、旧制松本高等学校のドイツ語教師に招聘され、立沢から篠ノ井線田沢駅に近い農家の一隅を借り家族7人が移り住んだ。立沢に疎開しておいた手塚の絵も移した。
松本高校ではゲーテの「色彩論」をテキストとした。教え子に森健躬、北杜夫、辻邦生等が、山梨県の出身では山下泰徳、樋口利男等がいた。田沢の家には「飢えた若きライオン達」がやってきて手塚の絵を見、ダベリそして満腹していった。夫人が市内の「質屋」に行くのを垣間見てしまった学生もいた。
学生に対して中込は、自らのそれまでの「人生」を語り自讃することは全くなかった。
50年、旧制高校は終焉を迎え、中込は中央大学法学部教授となり、住いを藤沢市片瀬海岸とする。近くの鎌倉には45年に亡くなった西田幾多郎の墓、妻の伯母琴の住まう西田邸があり、その上、片瀬海岸は日蓮により「寂光土」と名付けられていたので日蓮信仰の篤い母さとじの推奨の地でもあった。
浜辺には、「七里浜 夕日漂う波の上に 伊豆の山々 果し知らずも」の幾多郎の歌碑があった。53年、増穂の生家の「白木蓮」が咲く中で、忠三は母さとじを送らねばならなかった。
西田夫人の琴は1883年、山田弘道の四女として甲府市寿町に生まれ、幼児洗礼を受け、1900年山梨英和女学校英語科卒業、上京して東洋英和女学校高等科に学んだ。卒業後、山梨英和、静岡英和で教鞭を執ったが、26才で女子英学塾(現 津田塾大学)3年に編入学した。津田梅子の推薦により12〜16年アメリカのヴァッサー女子大学に留学、帰国後、33年まで女子英学塾教授であった。
この間、日本YWCA中央委員、常任委員として活躍していた。31年、高名な哲学者西田幾多郎と結婚した。岩波書店創業者の岩波茂雄、安部能成、和辻哲郎等の計らいであった。京都と鎌倉を往き来する生活は、必ずしも安定したものではなかったが、西田は琴の献身をうけ、その哲学を集大成していった。
45年6月7日、西田が逝った後、琴は決して華やかではないがYWCAを中心にした活動を続けていた。「原水爆禁止」・「ヴエトナム戦争反対」の運動に賛同したり、英文による抗議の書簡をアメリカのジョンソン大統領に送ったりした。
中込忠三・美恵子夫妻は、50年以後近くに住んだので折りにふれ伯母の家(寸心荘)を訪ねた。琴が、幾多郎の眠る北鎌倉「東慶寺」に葬られたのは桜の花びらの散りさかる73年4月、89才だった。
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